校正・校閲 「本を作るということ」

校正者やライターをやらせて頂いております。

自己紹介

名前

 森明子(奥みんす) 

メールアドレス

okuminsu.a.m@gmail.com

 

仕事

歴史・民俗関連の書籍の校正・校閲

その他一般書籍も対応中。

書評系ライターもやっています。

 

経歴

大学卒業後、出版社と編集プロダクションを転々とし、校正者として独立。東京から名古屋(結婚)、名古屋から東京への転居(離婚)を経て、現在は地元の八王子に在住。

河出書房新社の校正課に、派遣社員、その後個人契約の形で通った後、完全に自宅引きこもりで、活動中です。

 

得意なのは、

日本古代史、民俗学、江戸の文化、明治大正の文化

OCRで読み取った文章の引き合わせ、手書き原稿からの引き合わせ。

 

(書籍の制作作業、つまりは、インデザインでの組版、過去の文献から引用する画像のクリア化、も承ります。しかし、こちらはプロの腕前はないです。今のところ、自費での書籍制作を希望する方、学術系同人誌を作りたい方向けです。おしゃれな誌面じゃなくても良い、多少時間は掛かってもいい、あちこちと交渉をしたくない、安く済ませたい、という時にどうぞ)

 

 

資料 日本古代史年表(景初2年、景初3年)

日本古代史年表その2。

景初2年説と3年説を考えるためにつくったものです。

 

魏(明帝)曹叡 景初元年 237                                          
    景初二年 238 238年、司馬懿を派遣し、遼東で謀反を起こした公孫淵を滅ぼしている。同年、邪馬台国卑弥呼、初めて難升米らを中国の魏に派遣(出発から洛陽まで十ヶ月もかかっている)。魏から親魏倭王の仮の金印と銅鏡100枚を与えられる        
    景初三年 239 1月明帝崩御→斉王(曹芳)8歳 後見人:司馬懿、すぐに司馬昭 曹爽と司馬懿の対立が起こり、曹爽が司馬懿を排除して専権を振るった。249年、司馬懿はこれに逆襲してクーデターを起こして曹爽一派を逮捕、権力を掌握し、曹芳を傀儡とした(高平陵の変)      
    正始元年 240             239年 卑弥呼、魏に使いを送り「親魏倭王」の号を受け取る(明帝のときか、斉王のときかわからず、司馬懿司馬昭かわからず)、238年の使節が物品を持って帰ってきたということ、金印は帯方郡守を経由してもらっている   189年 公孫度は遼東太守、楽浪郡支配下に。      
    正始二年 241                 204年 度が死去し、その嫡子・康が後を継ぐ。楽浪郡の南半分と、さらに南方の荒れ地を統合
      242                 して帯方郡を設置。この後、韓ワイを打ち、韓と倭を属させた。    
      243                 207年 康は、曹操(ー220)から襄平侯・左将軍 に任命される      
      244                           221年 康死去?《曹丕(220-226)から、大司馬を追贈》。その後、弟の恭が立つ。
      245                           228年 公孫淵は恭を追放。淵の兄・晃は魏の都にいて官位を得て継承者だったはずが継げず。
      246                           237年 公孫淵は自立を宣言。(何月かは不明)      
      247                           237~8年 明帝は、密かに楽浪・帯方郡を劉昕と鮮于嗣(後の楽浪・帯方太守)に平定させる
      248                           238年 正月、魏は遼東にいる淵の攻撃命令を司馬懿へ出す    
  正始十年・4月に嘉平元年 249 斉王が廃立され曹髦                       238年 6月?卑弥呼の使いが帯方郡に到着        
      250                           238年 8月 司馬懿公孫淵を平定        

資料 日本古代史年表

日本古代史年表を作りました。
箸墓築造の年代については、2説記載しています。
間違っているところがあれば、教えてくださると助かります。

 

前15万年 日本列島でも旧石器時代を確認(火と石を使う狩猟生活)   
前3万年 この頃、現在の日本列島が出来上がる  
前1万年 縄文土器の制作がはじまる  
気候が急激に温暖化、海水面が上昇(縄文海進)  
前4000年 この頃、縄文海進が最大になる  
関東平野の内湾を中心に大規模な貝塚が営まれる  
前1000年 関東地方では遺跡数が激減 関東平野貝塚も激減する  
前300年 この頃、朝鮮半島から稲作が伝わり北九州で水稲作耕作がはじまる
紀元前後 この頃、倭(日本)百余国に分立  
57年 倭奴国王が後漢光武帝)に使いを送り、光武帝より「漢委奴国王」の金印を受け取る(志賀島出土金印)
107年 倭面土国王が後漢に使いを送り生口160人を献上する  
140-88年頃 この頃、倭国大いに乱れる 卑弥呼を立てて王とする(邪馬台国
140-88年頃 この頃、倭国大いに乱れる 卑弥呼を立てて王とする(邪馬台国
248年頃 卑弥呼死ぬ→男王(弟ではない)が立つが乱れる  
250年頃   箸墓古墳が築かれる?
260年頃 壹与が立つ 纏向遺跡(ヤマト政権=崇神・垂仁・景行)奈良盆地南東部(壹与と崇神は同じ歳)
    前方後円墳が近畿、東海、瀬戸内、北九州に出現   
318年 崇神天皇崩御古事記崩年干支による)(または258年)  
320-350年頃 青銅鏡の分布が北部九州(位至三公鏡=西晋時代の鏡、洛陽晋墓から出土)から畿内(画文帯神獣鏡=長江流域の銅が使われている、中国でも出土・・・4世紀になると三角縁神獣鏡=長江流域の銅、中国からは出土していない)へ移動
    箸墓古墳が築かれる
    纏向遺跡(ヤマト政権=崇神・垂仁・景行)奈良盆地南東部(壹与と崇神は同じ歳)
    前方後円墳が近畿、東海、瀬戸内、北九州に出現   
350年頃 巨大前方後円墳の立地が奈良盆地北部(佐紀古墳群)や西部(馬見古墳群)に移動する
372年 百済王、倭王に七支刀をおくる(石上神宮七支刀)  
391年 倭国、海を渡り百済新羅を攻める、広海土王碑(倭が新羅を破り臣民とする)
400年頃 九州北部に横穴式石室が登場(それまでは全国的に竪穴式石室)
400年 この頃以降、中国・朝鮮から多くの技術・文化が伝わる(渡来人)この頃から大規模な前方後円墳が造られる(古墳巨大化)
404年 倭国高句麗と戦い敗れる  
413年 倭国王東晋に使いを送る  
421年 倭王讃仁徳天皇か)宋に使いを送る、安東将軍倭国王に任命される
438年 倭王珍反正天皇か)宋に使いを送る  
443年 倭王済允恭天皇か)宋に使いを送り「安東将軍倭国王」の称号を授けられる
450年頃 近畿地方に王権直轄と考えられる巨大倉庫群が築かれる、奈良盆地と吉備地域で古式群衆墓が出現する
462年 倭王興安康天皇か)宋に使いを送る  
471年 稲荷山古墳、出土銘文鉄剣(辛亥年・ワカタケル)、一説に531年
478年 倭王武雄略天皇か)宋に国書を送り「安東大将軍倭王」の称号を授けられる
502年 倭王武、梁から「征東大将軍」の称号を授けられる  
507年 継体天皇が樟葉宮で即位する、継体1年  
512年 大伴金村任那四県を百済に与える  
513年 百済から五経博士来朝(儒教伝わる)  
527年 筑紫の国造、磐井の反乱(岩戸山古墳)  
534年 武蔵国造の争い(屯倉が増加)  
538年 百済聖明王、仏像と経典を伝える 仏教公伝(日本書紀では552年)
552年 仏教礼拝をめぐり、蘇我稲目と物部尾興が対立する  
562年 任那加羅)が新羅に滅ぼされる  
587年 蘇我馬子物部守屋とその一族を滅ぼす  
588年 飛鳥寺法興寺)建立に着手  
前15万年 日本列島でも旧石器時代を確認(火と石を使う狩猟生活)   
前3万年 この頃、現在の日本列島が出来上がる  
前1万年 縄文土器の制作がはじまる  
気候が急激に温暖化、海水面が上昇(縄文海進)  
前4000年 この頃、縄文海進が最大になる  
関東平野の内湾を中心に大規模な貝塚が営まれる  
前1000年 関東地方では遺跡数が激減 関東平野貝塚も激減する  
前300年 この頃、朝鮮半島から稲作が伝わり北九州で水稲作耕作がはじまる
紀元前後 この頃、倭(日本)百余国に分立  
157年 倭奴国王が後漢光武帝)に使いを送り、光武帝より「漢委奴国王」の金印を受け取る(志賀島出土金印)
207年 倭面土国王が後漢に使いを送り生口161人を献上する  
140-88年頃 この頃、倭国大いに乱れる 卑弥呼を立てて王とする(邪馬台国
140-88年頃 この頃、倭国大いに乱れる 卑弥呼を立てて王とする(邪馬台国
248年頃 卑弥呼死ぬ→男王(弟ではない)が立つが乱れる  
250年頃   箸墓古墳が築かれる?
260年頃 壹与が立つ 纏向遺跡(ヤマト政権=崇神・垂仁・景行)奈良盆地南東部(壹与と崇神は同じ歳)
    前方後円墳が近畿、東海、瀬戸内、北九州に出現   
319年 崇神天皇崩御古事記崩年干支による)(または259年)  
320-351年頃 青銅鏡の分布が北部九州(位至三公鏡=西晋時代の鏡、洛陽晋墓から出土)から畿内(画文帯神獣鏡=長江流域の銅が使われている、中国でも出土・・・5世紀になると三角縁神獣鏡=長江流域の銅、中国からは出土していない)へ移動
    箸墓古墳が築かれる
    纏向遺跡(ヤマト政権=崇神・垂仁・景行)奈良盆地南東部(壹与と崇神は同じ歳)
    前方後円墳が近畿、東海、瀬戸内、北九州に出現   
351年頃 巨大前方後円墳の立地が奈良盆地北部(佐紀古墳群)や西部(馬見古墳群)に移動する
410年 百済王、倭王に七支刀をおくる(石上神宮七支刀)  
429年 倭国、海を渡り百済新羅を攻める、広海土王碑(倭が新羅を破り臣民とする)
401年頃 九州北部に横穴式石室が登場(それまでは全国的に竪穴式石室)
400年 この頃以降、中国・朝鮮から多くの技術・文化が伝わる(渡来人)この頃から大規模な前方後円墳が造られる(古墳巨大化)
404年 倭国高句麗と戦い敗れる  
413年 倭国王東晋に使いを送る  
421年 倭王讃仁徳天皇か)宋に使いを送る、安東将軍倭国王に任命される
438年 倭王珍反正天皇か)宋に使いを送る  
443年 倭王済允恭天皇か)宋に使いを送り「安東将軍倭国王」の称号を授けられる
451年頃 近畿地方に王権直轄と考えられる巨大倉庫群が築かれる、奈良盆地と吉備地域で古式群衆墓が出現する
462年 倭王興安康天皇か)宋に使いを送る  
471年 稲荷山古墳、出土銘文鉄剣(辛亥年・ワカタケル)、一説に531年
478年 倭王武雄略天皇か)宋に国書を送り「安東大将軍倭王」の称号を授けられる
502年 倭王武、梁から「征東大将軍」の称号を授けられる  
507年 継体天皇が樟葉宮で即位する、継体1年  
512年 大伴金村任那四県を百済に与える  
513年 百済から五経博士来朝(儒教伝わる)  
527年 筑紫の国造、磐井の反乱(岩戸山古墳)  
534年 武蔵国造の争い(屯倉が増加)  
538年 百済聖明王、仏像と経典を伝える 仏教公伝(日本書紀では553年)
552年 仏教礼拝をめぐり、蘇我稲目と物部尾興が対立する  
562年 任那加羅)が新羅に滅ぼされる  
587年 蘇我馬子物部守屋とその一族を滅ぼす  
588年 飛鳥寺法興寺)建立に着手