日本古代史年表を作りました。
箸墓築造の年代については、2説記載しています。
間違っているところがあれば、教えてくださると助かります。
前15万年 | 日本列島でも旧石器時代を確認(火と石を使う狩猟生活) | |
前3万年 | この頃、現在の日本列島が出来上がる | |
前1万年 | 縄文土器の制作がはじまる | |
気候が急激に温暖化、海水面が上昇(縄文海進) | ||
前4000年 | この頃、縄文海進が最大になる | |
関東平野の内湾を中心に大規模な貝塚が営まれる | ||
前1000年 | 関東地方では遺跡数が激減 関東平野の貝塚も激減する | |
前300年 | この頃、朝鮮半島から稲作が伝わり北九州で水稲作耕作がはじまる | |
紀元前後 | この頃、倭(日本)百余国に分立 | |
57年 | 倭奴国王が後漢(光武帝)に使いを送り、光武帝より「漢委奴国王」の金印を受け取る(志賀島出土金印) | |
107年 | 倭面土国王が後漢に使いを送り生口160人を献上する | |
140-88年頃 | この頃、倭国大いに乱れる 卑弥呼を立てて王とする(邪馬台国) | |
140-88年頃 | この頃、倭国大いに乱れる 卑弥呼を立てて王とする(邪馬台国) | |
248年頃 | 卑弥呼死ぬ→男王(弟ではない)が立つが乱れる | |
250年頃 | 箸墓古墳が築かれる? | |
260年頃 | 壹与が立つ | 纏向遺跡(ヤマト政権=崇神・垂仁・景行)奈良盆地南東部(壹与と崇神は同じ歳) |
→前方後円墳が近畿、東海、瀬戸内、北九州に出現 | ||
318年 | 崇神天皇崩御(古事記崩年干支による)(または258年) | |
320-350年頃 | 青銅鏡の分布が北部九州(位至三公鏡=西晋時代の鏡、洛陽晋墓から出土)から畿内(画文帯神獣鏡=長江流域の銅が使われている、中国でも出土・・・4世紀になると三角縁神獣鏡=長江流域の銅、中国からは出土していない)へ移動 | |
箸墓古墳が築かれる | ||
纏向遺跡(ヤマト政権=崇神・垂仁・景行)奈良盆地南東部(壹与と崇神は同じ歳) | ||
→前方後円墳が近畿、東海、瀬戸内、北九州に出現 | ||
350年頃 | 巨大前方後円墳の立地が奈良盆地北部(佐紀古墳群)や西部(馬見古墳群)に移動する | |
372年 | 百済王、倭王に七支刀をおくる(石上神宮七支刀) | |
391年 | 倭国、海を渡り百済・新羅を攻める、広海土王碑(倭が新羅を破り臣民とする) | |
400年頃 | 九州北部に横穴式石室が登場(それまでは全国的に竪穴式石室) | |
400年 | この頃以降、中国・朝鮮から多くの技術・文化が伝わる(渡来人)この頃から大規模な前方後円墳が造られる(古墳巨大化) | |
404年 | 倭国、高句麗と戦い敗れる | |
413年 | 倭国王、東晋に使いを送る | |
421年 | 倭王讃(仁徳天皇か)宋に使いを送る、安東将軍倭国王に任命される | |
438年 | 倭王珍(反正天皇か)宋に使いを送る | |
443年 | 倭王済(允恭天皇か)宋に使いを送り「安東将軍倭国王」の称号を授けられる | |
450年頃 | 近畿地方に王権直轄と考えられる巨大倉庫群が築かれる、奈良盆地と吉備地域で古式群衆墓が出現する | |
462年 | 倭王興(安康天皇か)宋に使いを送る | |
471年 | 稲荷山古墳、出土銘文鉄剣(辛亥年・ワカタケル)、一説に531年 | |
478年 | 倭王武(雄略天皇か)宋に国書を送り「安東大将軍倭王」の称号を授けられる | |
502年 | 倭王武、梁から「征東大将軍」の称号を授けられる | |
507年 | 継体天皇が樟葉宮で即位する、継体1年 | |
512年 | 大伴金村、任那四県を百済に与える | |
513年 | 百済から五経博士来朝(儒教伝わる) | |
527年 | 筑紫の国造、磐井の反乱(岩戸山古墳) | |
534年 | 武蔵国造の争い(屯倉が増加) | |
538年 | 百済聖明王、仏像と経典を伝える 仏教公伝(日本書紀では552年) | |
552年 | 仏教礼拝をめぐり、蘇我稲目と物部尾興が対立する | |
562年 | 任那(加羅)が新羅に滅ぼされる | |
587年 | 蘇我馬子、物部守屋とその一族を滅ぼす | |
588年 | 飛鳥寺(法興寺)建立に着手 | |
前15万年 | 日本列島でも旧石器時代を確認(火と石を使う狩猟生活) | |
前3万年 | この頃、現在の日本列島が出来上がる | |
前1万年 | 縄文土器の制作がはじまる | |
気候が急激に温暖化、海水面が上昇(縄文海進) | ||
前4000年 | この頃、縄文海進が最大になる | |
関東平野の内湾を中心に大規模な貝塚が営まれる | ||
前1000年 | 関東地方では遺跡数が激減 関東平野の貝塚も激減する | |
前300年 | この頃、朝鮮半島から稲作が伝わり北九州で水稲作耕作がはじまる | |
紀元前後 | この頃、倭(日本)百余国に分立 | |
157年 | 倭奴国王が後漢(光武帝)に使いを送り、光武帝より「漢委奴国王」の金印を受け取る(志賀島出土金印) | |
207年 | 倭面土国王が後漢に使いを送り生口161人を献上する | |
140-88年頃 | この頃、倭国大いに乱れる 卑弥呼を立てて王とする(邪馬台国) | |
140-88年頃 | この頃、倭国大いに乱れる 卑弥呼を立てて王とする(邪馬台国) | |
248年頃 | 卑弥呼死ぬ→男王(弟ではない)が立つが乱れる | |
250年頃 | 箸墓古墳が築かれる? | |
260年頃 | 壹与が立つ | 纏向遺跡(ヤマト政権=崇神・垂仁・景行)奈良盆地南東部(壹与と崇神は同じ歳) |
→前方後円墳が近畿、東海、瀬戸内、北九州に出現 | ||
319年 | 崇神天皇崩御(古事記崩年干支による)(または259年) | |
320-351年頃 | 青銅鏡の分布が北部九州(位至三公鏡=西晋時代の鏡、洛陽晋墓から出土)から畿内(画文帯神獣鏡=長江流域の銅が使われている、中国でも出土・・・5世紀になると三角縁神獣鏡=長江流域の銅、中国からは出土していない)へ移動 | |
箸墓古墳が築かれる | ||
纏向遺跡(ヤマト政権=崇神・垂仁・景行)奈良盆地南東部(壹与と崇神は同じ歳) | ||
→前方後円墳が近畿、東海、瀬戸内、北九州に出現 | ||
351年頃 | 巨大前方後円墳の立地が奈良盆地北部(佐紀古墳群)や西部(馬見古墳群)に移動する | |
410年 | 百済王、倭王に七支刀をおくる(石上神宮七支刀) | |
429年 | 倭国、海を渡り百済・新羅を攻める、広海土王碑(倭が新羅を破り臣民とする) | |
401年頃 | 九州北部に横穴式石室が登場(それまでは全国的に竪穴式石室) | |
400年 | この頃以降、中国・朝鮮から多くの技術・文化が伝わる(渡来人)この頃から大規模な前方後円墳が造られる(古墳巨大化) | |
404年 | 倭国、高句麗と戦い敗れる | |
413年 | 倭国王、東晋に使いを送る | |
421年 | 倭王讃(仁徳天皇か)宋に使いを送る、安東将軍倭国王に任命される | |
438年 | 倭王珍(反正天皇か)宋に使いを送る | |
443年 | 倭王済(允恭天皇か)宋に使いを送り「安東将軍倭国王」の称号を授けられる | |
451年頃 | 近畿地方に王権直轄と考えられる巨大倉庫群が築かれる、奈良盆地と吉備地域で古式群衆墓が出現する | |
462年 | 倭王興(安康天皇か)宋に使いを送る | |
471年 | 稲荷山古墳、出土銘文鉄剣(辛亥年・ワカタケル)、一説に531年 | |
478年 | 倭王武(雄略天皇か)宋に国書を送り「安東大将軍倭王」の称号を授けられる | |
502年 | 倭王武、梁から「征東大将軍」の称号を授けられる | |
507年 | 継体天皇が樟葉宮で即位する、継体1年 | |
512年 | 大伴金村、任那四県を百済に与える | |
513年 | 百済から五経博士来朝(儒教伝わる) | |
527年 | 筑紫の国造、磐井の反乱(岩戸山古墳) | |
534年 | 武蔵国造の争い(屯倉が増加) | |
538年 | 百済聖明王、仏像と経典を伝える 仏教公伝(日本書紀では553年) | |
552年 | 仏教礼拝をめぐり、蘇我稲目と物部尾興が対立する | |
562年 | 任那(加羅)が新羅に滅ぼされる | |
587年 | 蘇我馬子、物部守屋とその一族を滅ぼす | |
588年 | 飛鳥寺(法興寺)建立に着手 |