日本古代史年表その2。
景初2年説と3年説を考えるためにつくったものです。
魏(明帝)曹叡 | 景初元年 | 237 | ||||||||||||||||||||||
景初二年 | 238 | 238年、司馬懿を派遣し、遼東で謀反を起こした公孫淵を滅ぼしている。同年、邪馬台国の卑弥呼、初めて難升米らを中国の魏に派遣(出発から洛陽まで十ヶ月もかかっている)。魏から親魏倭王の仮の金印と銅鏡100枚を与えられる | ||||||||||||||||||||||
景初三年 | 239 | 1月明帝崩御→斉王(曹芳)8歳 | 後見人:司馬懿、すぐに司馬昭 | 曹爽と司馬懿の対立が起こり、曹爽が司馬懿を排除して専権を振るった。249年、司馬懿はこれに逆襲してクーデターを起こして曹爽一派を逮捕、権力を掌握し、曹芳を傀儡とした(高平陵の変) | ||||||||||||||||||||
正始元年 | 240 | 239年 | 卑弥呼、魏に使いを送り「親魏倭王」の号を受け取る(明帝のときか、斉王のときかわからず、司馬懿か司馬昭かわからず)、238年の使節が物品を持って帰ってきたということ、金印は帯方郡守を経由してもらっている | 189年 公孫度は遼東太守、楽浪郡を支配下に。 | ||||||||||||||||||||
正始二年 | 241 | 204年 度が死去し、その嫡子・康が後を継ぐ。楽浪郡の南半分と、さらに南方の荒れ地を統合 | ||||||||||||||||||||||
242 | して帯方郡を設置。この後、韓ワイを打ち、韓と倭を属させた。 | |||||||||||||||||||||||
243 | 207年 康は、曹操(ー220)から襄平侯・左将軍 に任命される | |||||||||||||||||||||||
244 | 221年 康死去?《曹丕(220-226)から、大司馬を追贈》。その後、弟の恭が立つ。 | |||||||||||||||||||||||
245 | 228年 公孫淵は恭を追放。淵の兄・晃は魏の都にいて官位を得て継承者だったはずが継げず。 | |||||||||||||||||||||||
246 | 237年 公孫淵は自立を宣言。(何月かは不明) | |||||||||||||||||||||||
247 | 237~8年 明帝は、密かに楽浪・帯方郡を劉昕と鮮于嗣(後の楽浪・帯方太守)に平定させる | |||||||||||||||||||||||
248 | 238年 正月、魏は遼東にいる淵の攻撃命令を司馬懿へ出す | |||||||||||||||||||||||
正始十年・4月に嘉平元年 | 249 | 斉王が廃立され曹髦 | 238年 6月?卑弥呼の使いが帯方郡に到着 | |||||||||||||||||||||
250 | 238年 8月 司馬懿は公孫淵を平定 |